貪欲なくば憂いなしという話(平成31年1月分法話)
昔、お釈迦様が祇園精舎におられた時のことである。
4人の新学の修行者が、美しい香りのする奈花(ないか)の下で座禅をしていたが、
この世の中で、何が一番愛すべく、楽しみなものであろうか、
ということを互いに言い合っていた。
甲は、
「のどかな春の日に、花咲く野をそぞろ歩きすることほど、
楽しいものはない」と言い、
乙は、
「親戚知己を集めて、おいしい酒を酌み交わし、
歌舞や音曲に耳や目を楽しませながら、
心おきなくむつみ合うのは、
非情の花木を見るよりも、一番楽しいことだ」と言うし、
丙は、
「いや、もっと楽しいことがある。
宝を山と積んで、
欲しいものは何でも得られるということである。
いかめしい服装をして、馬車に乗って堂々と乗りまわし、
見る者、行き会う者に、驚きの目を見張らせることほど
愉快なことはない」と言う。
最後に丁は、
「私は、それ以上に快感を考えている。
花のような妻や愛人に、目の覚めるような立派な服を着させ、
人の心をとろかすような香りをただよわせ、
思いのまま、心のままに遊んだなら、
どんなに楽しいことだろうか」
4人はそれぞれ空想をたくましくして、自分を忘れて、その欲望を論じあった。
お釈迦様は、
いわゆる凡夫の有する6種の欲である、
色欲、顔を美しくする欲、姿かたちをよくする欲、
よい言葉で飾ろうとする欲、細滑欲、人相欲といった
6つの欲をほしいままにし、
その身の無常をも忘れているのを哀れに思われて、
彼らを呼び寄せて言われた。
「修行者たちよ。
お前達は奈花の下で何を論じあっていたのか」
仏にたずねられて、彼らは今さら隠すこともならず、
今までのことを申し上げた。
仏は委細を聞き終わって、彼らに言われた。
「お前達の言うことは、みな憂いと恐れへの道だ。
そのようなことは、決して永久の慰安でもなければ快楽でもない。
万物はことごとく春さかえて、秋冬には衰え落ちるではないか。
同胞兄弟相寄って楽しむといっても、いずれは別離の悲しみが来る。
財宝や車馬に、どこに楽しみがあるか。
妻や愛人の美色はいつしか憎しみの元になるではないか。
凡夫が世に処して行なう所、為すところはどれもこれも、
恨みを招き、災いを起こし、身を危うくし、族を滅ぼすものである。
皆これ、憂いと恐れとを招き寄せるものばかりである。
されば修行者よ、
この世を捨てて、道を求め、
栄達利益を求めず、
悟りの道を求めなければならない」
4人の修行者は、この仏の教えを聞いて、
何が一番苦しいものであるか、
何が一番楽しいものであるか、
知ることが出来た。
それ故、迷いの夢も一瞬にして覚め、
仏の道に励み、怠らなかったので、
ついにアラカンの悟りを開いたということである。
(仏教説話文学全集から)
☆ ☆
私達には色々な欲があります。その欲を上記の4人が代弁しています。
縁起の理法を知っている人なら、お釈迦様のお話はよく分かります。
しかし、たまに聞くことがあります。
「将来はどうなってもいい。今が良ければそれで良い」と言う人も。
自分の行いは、自分が決めることですから、仏様でもそれ以上言うことは出来ません。
仏様は、私達が仏様に向き合うのを待たれます。時期を待たれます。
その時期を待って、私達を教え、導いて下さいます。
私達は教えて頂いても、すぐ忘れてしまいます。
そんな時、私達を教え導いてくれる人がいるか、いないかで、私達の将来が変わります。
自分を、教え・導いてくれる人がいるのは有難いことです。
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