もののあわれを知らぬ老人の話(平成30年12月分法話)
昔、お釈迦様が舎衛国におられた時のことである。
城内に80歳過ぎの老いたバラモンがいた。
彼は数知れないほどの多くの財産を持ちながら、
その性質は愚かで、物惜しみをし、思いやりのない、
まことに救い難いバラモンであった。
彼はある時、宮殿のような立派な新居を建て始めた。
それは、前の建物、後ろの建物、涼み台、暖房、東西の棟など、
宏荘なものであった。
大体出来上がっていたが、
後堂の棟上げが残っている程度の仕事が残されていた。
それ故、彼は自ら大工や左官を指揮し、
万事を指図して、家造りに懸命であった。
時に、お釈迦様は仏の見抜く強い目でもって、
この老人の寿命が、その日の内に尽きて、あの世の者になるのも知らず、
精魂と力を尽くして、身も痩せる思いをしている老人を不憫に思われて、
弟子の阿難を伴って、彼の家を訪れた。
「ご老人、あなたは大層よくお働きで、お疲れになりませんか。
こんな広大な家を造って、どうなさるのですか」
すると老人は自慢げに、
「前の建物は客間、後ろの建物は私の居間です。
その他、東西の棟は子供や家族の住まい、
宝物の置き場、召使の部屋もあります。
また、夏には涼み台にいて、冬には温室に移ります」と言った。
そこで仏は、
「それは結構なことです。
私はあなたの福徳を聞いて、一度お話をしたいと思っていました。
実は、有難い1偈があります。
この1偈をあなたに聞かせたいと思うのですが、
まあ、仕事の手を休めて、ここに座って、
一緒に話そうではありませんか」
しかし老バラモンは、
「私はこの通り多忙です。
とても、座って話などしている暇はありません。
後日、暇な時にお出で下さい。
その時、ゆっくりと承りましょう。
今日は折角ですが、その1偈だけを簡単にお唱え下さい」と。
「いたし方ございません。
それでは、1偈だけ唱えてお教えいたしましょう」
そして仏が唱えられます。
「子あり、財産あり、なお愚者は汲々(きゅうきゅう)たり、
さわれまことに我れあらず、いずこに子や財あらん。
暑さ来ればここに住み、寒さ来ればかしこに移る。
愚者の思慮はおおむねこれ、いつ変わるとも知らずして。
愚かな者は、自ら知者なりと思う。
愚にして、知にまされりとする、
これぞ、愚の極みなる」
仏の説く偈文を聞いてバラモンは忙しそうにして、
一向に気にも止めなかった。
仏は、命が間もなく尽きるとも知らずに
営々としているこの老人を憐れみながら、そこを去られた。
仏の去られた後、
バラモンは、吊り下げた棟が落ちて、頭を打って即死した。
一家の驚きと嘆きは非常なものであった。
今まで、あんなに元気で新築の指図をしていたのに、
人の命というものは分からないものだと、嘆き悲しむのであった。
その後、仏は1偈を読まれた。
「愚者の知者に近づくは、瓢より味を汲むごとし。
久しく習うとも、ついに法味を知りがたし。
明者の知者に近づくは、舌もて味をなむるがごとし。
しばらくのあいだ習うとも、直ちに道味をわきまう。
愚人日ごとの行いは、身にうれいを招き、
心なく悪をなして、自らわざわいにかかる。
一度不善をなして、やがて後悔のヘソをかみ、
なみだに顔をぬらすは、皆ふるき習わしによる」
自分の命が間もなく尽きることも知らないで、
施しもせず、けちけちしてお金を貯めたり、家を建てたりするが、
一体これは、何のためにしているのであろう。
世の無常ということを知っているのであろうか。
この老人のような人はいないだろうか?と。
(仏教説話文学全集から)
☆ ☆
私達に寿命があり、死後にまで持っていけるものかどうか
その様なことを考えて、今を生きて下さいということだと思います。
勿論、今さえ楽しければ良いという事ではありません。
自分の心の成長。
自分の行いで、他が喜んでくれること。
自分の言葉が、他の為になること。
そして、正しきを学び、
自分が「愚者」でなく、「明者」になれるように心がけることが大事だと思います。
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