信じれば深い河も浅いという話(平成30年10月分法話)
昔、舎衛国の東南に、深く広い河が流れていて、
その岸辺には、五百余戸の人家があった。
この辺の土地は、仏の教えは行われず、
他にこれに変わる教えもなく、
ここの人達は、荒々しい行いをして、
人を欺くことに、生きがいを感じていた。
従って、彼らの生活のモットーは、
欲深く、わがままであれ、ということであった。
このような悪習をもって生活している彼らを哀れに思われたお釈迦様は、
「何とか、教化を」と願っておられましたが、
ある日、その機会がやって来たのを悟られ、
その土地に出掛けられました。
お釈迦様が、木の下で静かに座っておられると、
仏の光り輝くお顔を拝して、奇異の思いと、
何という尊いお方だろうという、心の叫びをもって、
ぞくぞくと村の人達が集まってきた。
そこで、色々と仏の道をお話しされたけれど、
誰一人として、仏の教えを信じようとしなかった。
「いつわり」と「わがまま気まま」の生活に慣れきっている人達には、
真実の言葉は信じられないのであった。
仏は哀れむこの人々を導くために、
神通力をもって、
江南から河を渡って来る1人の男に身を変えられた。
この男は、大きな河を渡るのに水面を歩むように、
僅かにその踝を水に浸すのみであった。
やすやすと大河を歩いて水面を渡ってきた男は、
仏の前に行き、ひれ伏して仏を礼拝した。
これを見た村の人達は大いに驚き、
その男に、「どんな術を使ったのか?」と質問をした。
男は、次のように答えた。
「私は愚かな者です。
仏様が、こちらに来られたとお聞きし、
是非とも尊いお話をお聞きしたいと、やって来ましたが
大河を渡る船もなく、悩んでいましたら、
『河は浅いよ』と言われ、
ひたすらその言葉を信じて、渡って来ました。」
すると、仏が、
「それは善いことをされた。
まことに、信じさえすれば、生死の淵もたやすく渡れるものである。
わずか数キロの江南を渡るのに、何の不思議があろう。
これはただ『信じる』の一事によるものだ」と。
この様子を見ていた人達は、
『信じよう』と心に堅く決め、それを実行に移した。
それ故、その後は、
「殺生、盗み、邪淫、うそつき、暴飲」といった仏の5つの戒めをよく守り、
善男善女として、生きたということである。
(仏教説話文学全集から)
☆ ☆
仏様は、人々を導くために、神通力を現されたと。
私達は、不思議な事に興味を持ち、心惹かれます。
そこで問題になるのが、その不思議が「嘘か真か」です。
目に見える事象ではなく、
その不思議な事象が、私達をどこに導こうとしているかです。
それを、しっかり見極めることが大事です。
そして、『信じる』ことは大事です。
大事であるからこそ、真実を信じなければなりません。
これは、信仰の場だけのことではありません。
正しいを見極められるように、精進いたしましょう。
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