アジャセ王の改悟・続(令和元年10月法話)
生まれつき凶暴で、好んでむごたらしい事をなし、父をも殺したアジャセ王は、それらの報いか、出来物に苦しんでいた。
大臣たちが色々と上申をしていた。
その時、ギバという名医が王の元に尋ねて来た。
「大王よ。よく安眠されますか。いかがでございますか」と。そして、
「大王のつくった罪は、天地も入れざる大罪でありますが、すでに罪の償いを深く心に決められ、過去の事を恥じておられます。
諸仏菩薩は常にかく申されます。
『多くの人々の救われるのに、二つの善法がある。
第一は慙(ざん)で、自ら罪をつくらず、人に恥じる。
第二は愧(き)で、他を教えて罪をつくらしめず、天に恥じる。
この慙愧なき者は、人と呼ぶことは出来ない。それは畜生である。
人と天に恥じ入るという心がある故に、よく父母師長を敬い、
慙愧あるが故に、父母、兄弟、姉妹の序あり』と説いておられます。
大王には深い慙愧の心が表れております。
仏の説によりますと、智者には二通りあるということであります。
罪業をつくらない者と、悪業をつくっても懺悔する者です。
愚者にも二種あるということです。
罪業をつくる者と、罪業を隠そうとする者であります。
さきに、悪業をつくっても、あとに懺悔し慙愧して、二度と悪業を繰り返さない者は、
丁度、濁った水の中へ明玉を入れると、明玉の力で水が清くなるように、
また、雲が除かれれば名月が現れるように、
悪業も、懺悔すれば罪業は消滅して、元の清浄にかえるのです。
大王よ。富に二種あります。象や馬などの家畜と、金銀珠玉の珍しい宝です。
しかし、象や馬がたくさんありましても、一個の珠玉には及びません。
多くの人々に於いても同様です。悪富と善富があるのです。
多くの悪業も、一つの善業には及びません。
『一つの善心は、百種の悪を破す』と言われます。
わずかな火で、この世の全てのものを焼き尽くすことが出来るように、
わずかな毒薬が、人を殺すように、
小善もまた、大悪を破ることが出来るのです。
また、仏の説によりますと、
智恵ある者は、罪業を包み隠さないで慙愧・懺悔すると聞いております。
死人はいかなる名医でも、再生させることが出来ないように、彼らも、仏といえども、手の付けようがないのです。
大王よ。大王は彼らと同一ではありません。
従って、救われざる者ではありません。
お釈迦様にお会いになりますならば、あらゆる重罪も消え失せてしまうと存じます」(つづく)
(仏教説話文学全集から)
☆ ☆
このお話では「慙愧」と「懺悔」が大事なポイントになっていると思います。
大なり小なり、私達は罪を犯しています。気がついている事、気がついていない事も数多いと思います。
本文にも出てきますが、
「第一は慙(ざん)で、自ら罪をつくらず、人に恥じる。
第二は愧(き)で、他を教えて罪をつくらしめず、天に恥じる」と。そして更に、
この慙愧なき者は、人と呼ぶことは出来ない。それは畜生である。とまで言われています。
人間にとって、この慙愧は大事なものです。
そして「懺悔」です。
仏教では、仏菩薩さま方が修行しようと決心される時には、懺悔されてからだと言われます。
それほどに「懺悔」することは大事なことなのです。
そして、勘違いしてならないことは、後で懺悔や良い事をすれば今は何をしてもよい、悪い事をしても大丈夫ということではありません。
深みにはまるほど、抜けるには、労力が多く必要になります。
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