維摩経から(令和2年10月法話)

前回は、お釈迦様の10大弟子のおひとり舎利弗と維摩居士のいきさつをお話しました。

今回は、舎利弗と並び称される高弟の、目連と維摩居士とのお話です。

目連も、維摩居士への見舞いを断ります。

その理由はやはり、維摩居士にやりこまれた事が理由です。

それは、

「君は、居士に法を説いているが、君のような説法の仕方はいけない。

説法は、法の如く説くものである。

知識のすぐれた人に、低級な教えを説いてはいけない。

そんな説法は、なんらの利益をも人々に与えない。

元来、法というものには、声聞、縁覚、菩薩のいずれかになるよう法定されるものでなく、

宇宙の万物、その実体はみな空(くう)、全ては平等であるから、

衆生だ、我だ、寿命だ、人だ、または美だ醜だ、というような区別のないものである。

この平等的な見地から、説法をせねばならぬ」と。

☆  ☆

先ずは、「人を見て法を説け」ということでしょうか。

相手の機根(きこん)に応じて話をすることは大事なこと。

しかしどうしても、自分本位で話をしがちになります。気をつけなければなりません。

そして、「空(くう)」が説かれます。

自分が到着点を想定して、そこに導こうとします。

しかし、それにこだわるな、と言われているように思います。

たしかに、自分の思い・考えが絶対に正しいとは限りません。

その故に、私達は信仰をするのだと思います。

正しい信仰をして、幸せになっていただきたいと念願します。

中山身語正宗覚弘院

中山身語正宗(なかやま・しんごしょうしゅう)覚弘院(かっこういん)のホームページです。住職は69才の男性です。このホームページを通して少しでも中山身語正宗 覚弘院を知っていただければ有難いと思います。